ラテンアメリカにおけるフェミニズム運動はイタリア、スペインの影響も大きく受けながら、いわゆる「主流フェミニズム」とは異なるポジションから、草の根の闘争としてのフェミニズムを実践してきた。その中心となったものがニ・ウナ・メノス(もう一人も殺させない)というフェミサイド(女性憎悪殺人)をめぐる闘いであり、もう一つが現在少しずつ成果を上げつつある中絶合法化の闘いであるといえるだろう。さらに先住民やアフロ系のインターセクショナルな差別構造に対するマイノリティからの運動が展開されてきた。こうしたラテンアメリカのフェミニズムの動きは、多くの歌を生み出してきた。ここでは過去2回その中の重要な曲とおもわれるもの、私が個人的に心を打ち抜かれた曲を紹介してきた。今回は、予定では今回ペルーにスポットを当てていく予定であったが、原稿を準備している中で北米メキシコとそのボーダーの先に生きるラティーノたちの非常に層の厚い曲の中から、もう少し紹介していきたいと思う。なかなかペルーに到達できていないが、もうしばらくお待ちいただければと思う。
久しぶりにオリジナル曲中心の新譜『すべての花からDe todas las flores』を出して多くのファンを喜ばせたナタリア・ラフォルカデは、現代メキシコを代表するシンガーソングライターだ。
そんな彼女が2020年、コロナ禍のさなかに発表したのがこの「La malquerida」だ。憎まれる女、というようなニュアンスと共に、人間性を否定され、透明化され、暴力を振るわれることで苦しむ女性が、私の目を見て、声を聴いて、私をきちんと対等な存在として認めてほしい、と語りかける。では、それを行っているのは誰か? それは言うまでもなく、男である。男性中心に構築された社会の中で周縁化され、不可視化され、収奪と暴力を当然として受け入れることを求められる女性という存在が、人間であると歌い上げている作品だ。
彼女は、この数年のメキシコの伝統を学びそこから作品を発表していくプロジェクトの中で、同様にメキシコにおける女性解放運動とも出会い、その闘争の意味を改めて問いなおし、自らの問題として声を上げることを、その戦列に自らも加わることを選んだのだろう。
そしてナタリア・ラフォルカデと同じベラクルス生まれのシルバナ・エストラーダは、2022年にラテン・グラミーの新人賞を受賞した実力派のシンガーソングライターだ。その受賞作となった『Marchita』に収録された「Sabre olvidar(忘れ方がわかるようになる)」は、傷ついた女性(それは暴力によるものか、失恋によるものかは明示されない)が、傷つけた当人からだけでなく、自らが自身に向けてしまっている抑圧をも解放させ、回復へと歩み始めるための道を描いたものであるようだ。力強くハスキーな彼女の声が歌い上げるその歌声は、傷つき自らを保てなくなるほどギリギリに追い詰められた人に寄り添い、力づけるものとなっている。再び笑うこと、歌うこと、踊ること、そして叫ぶこと。それははじめ空疎でもいい。体が動くことで、心も変化していくきっかけとなり得る。そしてその過程で自身を自己という檻から解き放つことで、人間存在として「愛」を再び自らの中に見いだしていくのだ、とそういう曲となっている。
彼女のハスキーで伸びやかな声で温かく歌い上げられることで、この曲はまっすぐに心の中に入ってくる。多くの人に届いた作品であったのではないか、と思う。
さらにどうしても取り上げたい人が一人いる。国境の北、テキサスでスペイン語と英語で歌い「テハーノの女王」と言われ、絶頂期にたった23歳でファンクラブの会長に殺されたセレーナである。幼少期から音楽を始め、極めて若い時代にすでにスターとなった彼女の劇的で伝説的な人生は、映画化され、また近年ドラマ化もされている。アメリカやメキシコだけでなく、ラテンアメリカ世界で今なお熱愛され、大きな影響力を持ち続けている歌手である。
彼女は、同時にテキサスのメキシコ系というマチスモ社会の中で常に最前線を切り開いてきた。中でもアメリカで差別されるラティーナたち、特にアメリカの主流社会の「美」から浮いてしまうと容姿に悩んでいた若い女性たちに対して、ラティーナとしての美しさという新たな価値を、自らのパフォーマンスと今なお影響力を持つファンションで切り開いた希有なアーティストでもある。
そんな彼女の「Si una vez」は、男女のDVを想像させる関係性の精算を宣言する曲として今なお根強い人気がある曲だ。ポップなクンビアのリズムに乗せて、愛に惑い、苦しみの中で後悔し、決別を選ぶ選択が歌い上げられる。
これまでに紹介したメキシコや国境の北からの歌(ビビール・キンターナ、レネ・ゴースト、エル・ハル・クロイ)に比べると、今回紹介した曲は幾分穏健であったように感じたかもしれないが、こうした濃淡、アプローチの豊かさも非常に重要なポイントであるといえる。様々な立場、考え方、経験があり、トラウマや回復の度合い、ケアの有無なども人それぞれだ。だからこそ、こうした多様な歌のバリエーションが生まれてくることが重要であり、メキシコ近辺はそれがかなり達成できている地域であるように思う。
最後にもう一曲、こんどはドカンと強烈なやつを紹介して終わりたい。レベッカ・ラネはメキシコの西に位置するグアテマラの歌手だ。フェミニズム・ラッパーであり、社会学者であり、詩人であり、役者であり、アナキストであると表明している。さらに、彼女のオバはグアテマラ内戦時、ゲリラ兵士となり、内戦末期に政府によって強制失踪させられているという。グアテマラといえば、20万人を超える虐殺抜きに社会のことを考えることは難しいほどであるが、だからこそその果てのない暴力の中から先住民フェミニズムも立ち上がり、世界の矛盾を暴く最前線となっている。
そんなラネの代表曲が、アルゼンチンから始まったフェミニズム闘争「ニ・ウナ・メノス」をタイトルに冠した曲だ。フェミサイド、性暴力、中絶禁止、こうした女性を巡る問題に声を上げることをヒステリーだという男性社会に配慮なんてせず、自分の身を守るために闘わざるを得ない、そんな女性の叫びが満ち満ちた曲だ。
そしてこの曲は、女性を勇気づけ、声を上げていいのだといいながら、返す刀で視線をそらそうとする男に対して、で、おまえは何をどう考えているのかと無言の圧力で問いかけているのだろう(と男である私は思っている)。女性差別は女の問題ではなく男の問題である。男性はまずそこを受け止めるところから、自らの問題として彼女らに連帯し、行動を起こしていかなければいけないだろう。【そんりさvol.186(2023.11)】
「音楽三昧♪ ペルーな日々」は「ソンリサ92号」(2004.11.6)から連載しています。
過去のソンリサの一部はPDFで購読できます。
https://recom.r-lab.info/sonrisa/#1
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